シャーロック・ホームズ トリビアの舞踏会

シンコー・ミュージック・エンターテイメント
田中喜芳
2019年7月2日初版発行 四六判・352頁 本体1,500円+税

【シャーロック・ホームズは彼女のことを
いつでも「あの女(ひと)」とだけいう。
ほかの名で呼ぶのを、ついぞ聞いたことがない。】

世界で最も有名な探偵、「唯一の私立顧問探偵」
シャーロック・ホームズの物語は、こうやって始まる。

「緋色の研究」「四つの署名」と、後に多くの支持を得ることになる長編が
2作続けて発表されたが、当初はさほど人気が出なかったらしい。
その後、月刊小説誌ストランド・マガジンの依頼に応えて
短編の連載を始めた。
その最初の一篇が「ボヘミアの醜聞」で、冒頭の一文がその書き出しである。
だから、ホームズの物語はこの一文から全世界に広がっていった、と言える。

「ボヘミアの醜聞」には一瞬で作品に引きずり込まれた。
文章の書き出しとして、これほど見事な一文はなかなか見ない。
新潮文庫版、延原謙の名訳である。
こういうふうに文章そのものと、世界観にのめり込んで読み始めた
イチ読者の立場から見て、“シャーロッキアン”の人々の
細かいところを丹念に照合させていく根気は驚嘆のひとこと。

人名や地名、日時の食い違いを探し出すぐらいはお手の物、
登場人物が実在するとすればそれは誰か、
創作されたのが明らかな人物ならモデルは誰か、
エピソードに出てくる様々な些細な表現から
可能な限り明らかにしようとする姿勢はもう、
執念と呼ぶべき域である。

作家や作品の熱烈なファンが、作品世界の細かいことを
データベース化する行動はホームズ作品でなくても
いくらも例があるが、世界的な組織まで存在して、
重箱の隅つつきではなく本当に楽しむためのデータとして
とりまとめるほどに大きなまとまり、動きになっているのは
シャーロッキアンたちだけではないか。
世界最大のベストセラーは聖書、とは多用される謂いだが
その次がホームズシリーズと言われるだけのことはある。

本書も、つまらないあげ足取りではなく時代考証も含めて
多面的な角度から作品世界の可能性を論じる姿は
執念と共に深みにはまっていく楽しさを感じる。
本文中の挿絵も著者が描いたようだが、これがまた出色である。

ちなみに、“シャーロッキアン”とはアメリカ風の呼び名で、
本国イギリスでは“ホルメジアン”と呼ぶ。
間違えると、ロンドンのベイカーストリート・イレギュラーズに
怒られるかも知れない。