欧米の隅々 市河晴子紀行文集

素粒社
市河晴子 著 / 高遠弘美 編
2022年10月28日 初版第一刷発行 B6判・400頁 本体2,200円+税

東京帝国大学(現・東京大学)で英語学の教授を務める
市河三喜が1931年に行った欧米視察旅行に、
妻の晴子も同行する。

市河晴子。渋沢栄一の孫娘で母は歌人・穂積歌子。
文才は遺伝だったか、と思ってしまうが、
由来はどうでもよくて文章の見事さが全ページからあふれる。

灰色に煤けて頑丈そうな建物が細いくねった横町を挟んで立ち、
そこからヒョイと出ると、とても賑やかな広場だったりするのはパリの常で

と『パリの第一印象』の冒頭に描いているが、
ほんとうにパリはそんな感じの街だった。
混みいった路地の先にえらく歴史の古い教会があって
その敷地が広場になっていて、人がいる。
近所の人か市内の人か、国内の旅行者か海外からか
区別のつかない雰囲気でそこに佇んでいるのである。

挿絵も写真もほとんどない本なのに、
読んでいるあいだずっと、映像と画像が目に浮かぶ。

文章は端正で蛇足がないが、けっして殺風景ではなく
比喩の語彙が豊かで精確でよく伝わる。
観察眼が鋭いので細かいこともよく見ており、
描写もまた、精確。
ウィットとかユーモアより、“機知に富む”と呼ぶべき
寸鉄人を刺す皮肉や茶目っ気。
もう、驚嘆意外に表現できない紀行文なのである。
良家の子女の物見遊山ではぜったいにあり得ない。
痺れる、というのはこういう文章に使う表現である。

この本は市河晴子の著書「欧米の隅々」と「米国の旅・日本の旅」
から編者・高遠弘美氏が“あえて選んで”一冊にまとめたもの。
「欧米の…」が1933年、「米国の…」が1940年の発行で
時間は空いているが、晴子の言葉遣い、比喩の見事さ、詞藻は
まったく変わっていない。
編者が抜粋にいかに苦労したか、思いやられるぐらいだ。

北欧、アイルランド、スイス、オーストリア…
行ってみたい国がまた増える。

著者の市河晴子は、息子の早逝に精神的打撃を受けて
自身もまた早逝してしまった。
著作がこれまで、あまり有名にならなかったのは
遺したものの少なさにも起因するのかもしれない。
あまりにも惜しい。